昭和41年11月14日 夜の御理解



 信心が楽しいもの。信心が楽しいと言う事に、なからなければ、信心に疲れが来ると思う。いつまでお参りせんならんだろうか、と言う様な事では信心に楽しみがあるとは言えません。しかもこれから先信心が、思うただけでも楽しゅうなるこれから先の信心。そういう信心でなかにゃいかん現在も楽しい。けれども思うただけでも、これから先の事の、信心が楽しゅうなる。その為に本当におかげを頂きましてですね。
 その時その時の自分の信心というものを、いかにそれなりに一生懸命それなりに、忠実にして行かなければならないか、大事にして行かなければならないかと。実意丁寧に取り組まなければならないかと言う事を思うんですね。今日若先生が鹿児島から、今朝帰りました。それであちらの御大祭を頂いて帰って来たんですけれども、その御大祭を頂いて帰ってきて、色々とお土産話が沢山あり、まあ自分も色々勉強にもならせて頂いたと言っておりますけれど。
 中にあのご直会に小さい、こんなご本をご直会に頂いて来ておるですね。「おかげの道を尋ねて、ある日の御結界から」という、行徳ちえこ先生がある御信者にお話された事を、その一冊の本に纏めてある訳で御座いますね。その中に私ちょっと読ませて頂いたんですけど、そこにこう言う事が書いてある。信心は矢張り欲があって、信心はするのである。欲を離せって何てんて言う宗教は、ほんなもんじゃない。欲があるからこそ信心をするのだと。けれどもその欲そのものの内容が変わってくるんだと言う事です。
 たとえ話に例えて言うなら、あの日吉丸ですね木下藤吉郎。そして羽柴筑前の神。太閤関白と。殿自らをしたそういう意味、大成功を納めた様にですね。いわゆる日吉丸の時代にです、また木下藤吉郎の時代に、初めから天下を取とうなんて言う様な野望があったとは思われないって。矢張り例えば木下藤吉郎の時代になった。もう本当にあの草履取りになったと言う事だけでも、大変有り難かったと。
 良い仕事にあり付いたと思うただろう。ただそこん所をです、その草履取りにならせて頂いたら次には足軽ぐらいに、いっちょ成功せなとこう思うたに違いはないと言うのです。ですから現在のその草履取りという、そのご用にも一生懸命打ちこんだ忠実に。信心はそれなんだと私は思うんです。ほんなら例えば足軽になった。足軽になったらまあせめて今度はその、もう少しひとつの旗頭にでもなるという侍になりたいと念願した。そして結局足軽なら足軽と言う事を。
 もう愈々工夫して忠実に、しかも一生懸命に勤め抜いた所に衆目の目がです。矢張りいわば良い士分に取りたてられるとか、一国一城の主になるとか。次には天下を取ると言った様な事に、段々なって行ったのであってね。結局、そん時そん時のその内容が素晴らしかったそん時そん時の。だからこげなお願いは可笑しゅうしてされまいち言う事はないちゅう事。ですからどうぞ商売が繁盛いたしますようにと言うて、商売人が商売の繁盛の願うならです。
 本当に繁盛のためにもう一生懸命に、忠実にならなければいけないと言う事。どうすりゃ繁盛するか、どうすりゃお客さんが喜んでくれるか、どうすりゃ安く仕入れる事が出けるか。愈々売るためには、どう言う様ないわゆる一生懸命の、その商売の道なら商売の道を勉強させて貰ってですたい。お取次ぎを頂いてお願いをして行かなければいけないか。もう十年も参りよるけんこげな事が願い出来まい。そういう実感も何もないのじゃおかげにならん。これはもう私がいつも言うとおり。
 自分が痛いと思うなら痛い事を、痒いと思うなら痒い事を。本気で一生懸命に願う。そこにならそのおかげを頂くための、おかげの頂く道というものをです、忠実に勤めなければならないと言う事。ですからその段々おかげを頂いて、願ういわばその内容が変わってくる。そうでしょうが。その願う内容が変わってくると言う事が楽しい。思うただけでも楽しい。はあ今でっちゃこの位な事が祈れておるのだから、しかも切実に。しかもそれは着々として、おかげを受けておるのであるから。
 自分の信心がもっと成長したならば、どういう素晴らしい事が祈れれるようになるだろう。どういうおかげが頂けるのだろうという、その思うただけでも楽しゅうなると言う様な信心が、私は必要であると。まあその所を読ませて頂いて、私はそういう風に感じたんです。はあ自分の事よりか人のことを願わにゃというのじゃないて。もう人の事を願わなければ、おられないという信心なんです。
 信心の始めの頃は、本当に自分の体のおかげを、頂きたいばっかり、先生のお繰り合わせを、頂きたいばっかりで参りよったのが、今頃は自分の金銭どころか、自分の体の事じゃない、家族の事じゃない、他人の誰彼の事が一生懸命、しかもその事のおかげを頂くためには、その事の道を見つけて。こういう願いが成就するためには、どう自分が忠実にならなければならないか、どう修行しなければならないかと言う事を。ただ願うだけなら誰でも願う。世界天下国家の事でも祈れる。
 ほんならそういう大した事を祈っておるのであるから、そういうおかげが成就する事のためには、どういう修行をしなければならないか、どういう信心をさせてもらわなければならないかという、そういう道を探してです。それを忠実に歩いて行かなければ、おかげを頂かれん。大きな事ばっかり願えりゃ、おかげ頂くと言う事じゃないて。自分の事よか、人のこつばっかり願いよらずと言うて、もう人の事でもおかげを頂くためには、人が助かる事さえ出来ればと、こう仰るが。
 人の助かる事の為には、ならどういう信心の道を、自分が歩かせて頂いたら、良い修行をさせて頂いたら、人が助かるようなおかげを頂くか。そして人が助かって行くという楽しみ。しかもこれから先はどのようなおかげを頂けれるだろうかと。私共も矢張り所謂終戦頃までは、ただ自分がおかげ頂きゃよかと思うておった。それは今の私がおかげさえ頂きゃ良いという意味じゃなかったんですね。もう人の事なんか頼むその、あれはなかった。とにかく私が商売繁盛させてもらう。
 そしてどんどん御用さえ出来りゃええぐらいな気持ちだった。それでもそれで良いのだと。ほんなら現在の私というものは、そうじゃない。同じ自分自身が助からなければならないけれども、自分が助かる事が、そのまま神様に喜んで頂くような御用が、人が助かって行く事の為の御用が出ける事の為に、先ず私が助からんなんという内容に変わってきた。その自分の信心の今度は育って行くと、こう言う様な事を言うけれども、自分の祈りの内容が育って行きよると言う事が楽しいのである。
 しかもそれがそのそういうおかげを頂くためには、例えば自分は今は草履取りだけれども、足軽になりたいと思うならです、そのその所を卒業したいならば、もう草履取りとしての最高のいわば精進を忠実に、精進したと言う事が足軽に認められる様になったんですよね木下藤吉郎は。そこん所です信心とは。そこん所を疎かにしてです、大きな事ばかりを次々願って、人の言葉願いよりますと言うたって、いかにも尊い様であっても、それではおかげが伴わない。それじゃ楽しみは思うただけでも。
 しいと言う様な信心にはなって来ないと、私は思うです。どうでしょうか皆さん、皆さんの信心がですたい、そう言う様に育って行きよるだろうか。成程願う内容は祈りの内容は美しい言葉で、それを繰り返し繰り返し、御祈念をしよると言う事だけれども、ならその事が成就するためにです、願っておる事がおかげを頂くためにです、どれだけの自分が修行をさせて頂いておるかと。しかもその修行がです、はたして良いか悪いか。本当にそのおかげを頂けれると言う事をです。
 目指しての信心修行と言う事に、なっておるかどうかと。そこん所を私は忠実に取り組んで行きなさったら、おかげにゃならん。おかげにならなかったらです、信心が成長するとは思われん。いわば思うただけでも、先が楽しいと言う事になって来ないと思うです。さあ皆さんが今切実に思うておる事は、どんな事でしょうか。どうぞひとつ借金払いが出来ますように。どうぞ自分がこんな願っておる事が、スムーズに行きますように。言うたら自分の信心が一つも成長してない。
 本当に自分の事だけに一生懸命。もうその事だけでもです、一生懸命お願いをしておるが、ならそれで良いんですよ。ですからならその事がおかげになるための信心を、どれだけしておるか、忠実にしておるかと言う事です。そしてそれがおかげを頂いて、自分の信心の祈りというものが、少し垢ぬけしたもの、少しおおらかなもの、少し神様が喜んで頂けれる事の為に、段々祈りの内容が変えられて、大きゅう育って行く事でしたら、確かに楽しいですね。皆さんそういう信心に切り替えなさらなきゃいけんと思うですね。
   どうぞ。